○ (慕容皝) 慕容皝元眞, 第三子也. 龍顔版齒, 身長七尺八寸. 雄毅多權略, 尙經學, 善天文. 遼東公, 立爲世子. 建武 (317-318)初, 拜爲冠軍將軍·左賢王, 封望平侯, 率衆征討, 累有功. 太寧 (323-325)末, 拜平北將軍, 進封朝鮮公. 卒, 嗣位, 以平北將軍行平州刺史, 督攝部內. 尋而宇文乞得龜爲其別部逸豆歸所逐, 奔死於外, 率騎討之, 逸豆歸懼而請和, 遂築楡陰·安晉二城而還.
初, 庶兄建威驍武有雄才, 素爲所忌, 母弟征虜·廣武並有寵於, 亦不平之. 及卒, 並懼不自容. 至此, 出奔段遼, 擧兵廢. , 遣使按檢之虛實, 遇險瀆. 知事發, 殺使, 東歸平郭. 遣其弟建武·司馬佟壽等討之. 司馬佟壽佟壽」, 各本作「佟燾」, 唯本作「佟壽」. 通鑑九五亦作「佟壽」, 今從本.盡衆距戰, 等大敗, 皆沒於. 襄平王冰·將軍孫機遼東叛于,東夷校尉封抽·護軍乙逸·遼東韓矯·玄菟太守高詡等棄城奔還. 於是盡有左之地, 自稱車騎將軍·平州刺史·遼東公. 宇文歸·段遼鮮卑諸部並爲之援.
咸和九年(334), 遣其司馬封弈鮮卑木堤白狼, 揚威淑虞烏丸悉羅侯平堈, 皆斬之. 材官劉佩乙連, 不克. 段遼遂寇徒河, 張萌逆擊, 敗之. 柳城, 都尉石琮擊敗之. 旬餘, ·復圍柳城, 遣寧遠慕容汗封弈等救之. 曰:「賊衆氣銳, 難與爭鋒, 宜顧萬全, 愼勿輕進, 必須兵集陣整, 然後擊之.」 性驍銳, 遣千餘騎爲前鋒而進, 封弈止之, 不從, 爲所敗, 死者太半. 復攻柳城, 爲飛梯·地道, 圍守二旬, 石琮躬勒將士出擊, 敗之, 斬首千五百級, 乃遁歸.
是歲, 成帝遣謁者徐孟·閭丘幸等持節拜鎭軍大將軍·平州刺史·大單于·遼東公, 持節·都督·承制封拜, 一如故事.
自征遼東, 克襄平. 所署居就劉程以城降, 新昌張衡執縣宰以降. 於是斬所置守宰, 分徙遼東大姓於棘城, 置和陽·武次·西樂三縣而歸.
咸康 (335-342)初, 遣封弈宇文別部涉奕于, 涉奕于通鑑九七「涉奕于」作「涉夜干」.「奕」「夜」 譯音之異,「于」「干」二字常相混, 不知孰是. 下不再出校. 大獲而還. 涉奕于率騎追戰于渾水, 又敗之. 將乘海討, 羣下咸諫, 以海道危阻, 宜從陸路. 曰:「舊海水無凌, 自反已來, 凍合者三矣. 昔漢光武滹沱之冰以濟大業, 天其或者欲吾乘此而克之乎! 吾計決矣, 有沮謀者斬!」 乃率三軍從昌黎踐凌而進. 不虞之至也, 軍去平郭七里, 候騎乃告, 狼狽出戰, 爲所擒, 殺而還.
立藉田於朝陽門東, 置官司以主之.
段遼遣其將李詠夜襲武興, 遇雨, 引還, 都尉張萌追擊, 擒. 段蘭擁衆數萬屯于曲水亭, 將攻柳城, 宇文歸入寇安晉, 爲聲援. 以步騎五萬擊之, 師次柳城, ·皆遁. 遣封弈率輕騎追擊, 敗之, 收其軍實, 館穀二旬而還. 謂諸將曰:「二虜恥無功而歸, 必復重至, 宜於柳城左右設伏以待之.」 遣封弈率騎潛于馬兜山諸道. 俄而騎果至, 夾擊, 大敗之, 斬其將榮保. 遣兼長史劉斌·郞中令陽景徐孟等歸于京師. 使其世子段遼諸城,.封弈宇文別部, 皆大捷而歸.
立納諫之木, 以開讜言之路.
後徙昌黎郡, 築好城乙連東, 使將軍蘭勃戍之, 以逼乙連. 又城曲水, 以爲援. 乙連饑甚, 段遼輸之粟, 蘭勃要擊獲之. 遣將屈雲興國, 與慕容遵大戰於五官水上, 敗, 斬之, 盡俘其衆.
封弈等以任重位輕, 宜稱燕王, 於是以咸康三年(337)僭卽王位, 赦其境內. 以封弈爲國相, 韓壽爲司馬, 裴開·陽騖·王㝢·李洪·杜羣·宋該·劉瞻·石琮·皇甫眞·陽協·宋晃·平熙·張泓等並爲列卿將帥. 起文昌殿, 乘金根車, 駕六馬, 出入稱警蹕. 以其妻段氏爲王后, 世子爲太子, 皆如魏武·晉文輔政故事.
段遼屢爲邊患, 遣將軍宋回稱藩于石季龍, 請師討. 季龍於是總衆而至. 率諸軍攻令支以北諸城, 遣其將段蘭來距, 大戰, 敗之, 斬級數千, 掠五千餘戶而歸. 季龍徐無, 密雲山. 季龍進入令支, 怒之不會師也, 進軍擊之, 至于棘城, 戎卒數十萬, 四面進攻, 郡縣諸部叛應季龍者三十六城. 相持旬餘, 左右勸降. 曰:「孤方取天下, 何乃降人乎!」 遣子等率騎二千, 晨出擊之. 季龍諸軍驚擾, 棄甲而遁. 乘勝追之, 斬獲三萬餘級, 築戍凡城而還. 段遼遣使詐降於季龍, 請兵應接. 季龍遣其將麻秋率衆迎, 伏精騎七千於密雲山, 大敗之, 獲其司馬陽裕·將軍鮮于亮, 擁段遼及其部衆以歸.
帝又遣使進爲征北大將軍·幽州牧, 領平州刺史, 加散騎常侍, 增邑萬戶, 持節·都督·單于·公如故.
前軍帥慕容評季龍石成等于遼西, 斬其將呼延晃·張支, 掠千餘戶以歸. 段遼謀叛, 誅之.
季龍又使石成入攻凡城, 不克, 進陷廣城.
雖稱燕王, 未有朝命, 乃遣其長史劉祥獻捷京師, 兼言權假之意, 幷請大擧討平中原. 又聞庾亮薨, 弟·繼爲將相, 乃表曰:
臣究觀前代昏明之主, 若能親賢並建, 則功致升平, 若親黨后族, 必有傾辱之禍. 是以申伯號稱賢舅, 以其身藩于外, 不握朝權. 降及秦昭, 足爲令主, 委信二舅, 幾至亂國. 逮于漢武, 推重田蚡, 萬機之要, 無不決之. 及死後, 切齒追恨. 成帝闇弱, 不能自立, 內惑艶妻, 外恣五舅, 卒令王莽坐取帝位. 每覽斯事, 孰不痛惋! 設使舅氏賢若穰侯·王鳳, 則但聞有二臣, 不聞有二主. 若其不才, 則有竇憲·梁冀之禍. 凡此成敗, 亦旣然矣. 苟能易軌, 可無覆墜.
陛下命世天挺, 當隆道, 而遭國多難, 殷憂備嬰, 追述往事, 至今楚灼. 迹其所由, 實因故司空居元舅之尊, 勢業之重, 執政裁下, 輕侮邊將, 故令蘇峻·祖約不勝其忿, 遂致敗國. 至令太后發憤, 一旦升遐. 若社稷不靈, 人神無助, 豺狼之心當可極邪! 前事不忘, 後事之表, 而中書監·左將軍等內執樞機, 外擁上將, 昆弟並列, 人臣莫疇. 陛下深敦渭陽, 等自宜引領. 臣常謂世主若欲崇顯舅氏, 何不封以藩國, 豐其祿賜, 限其勢利, 使上無偏優, 下無私論. 如此, 榮辱何從而生! 噂𠴲何辭而起! 往者惟一人, 宿有名望, 尙致世變, 況今居之者素無聞焉! 且人情易惑, 難以戶告, 縱令陛下無私於彼, 天下之人誰謂不私乎!
臣與等名位殊班, 出處懸邈, 又國之戚昵, 理應降悅, 以適事會. 臣獨矯抗此言者, 上爲陛下, 退爲計, 疾苟容之臣, 坐鑒得失. 顚而不扶, 焉用彼相! 昔徐福霍氏之戒, 宣帝不從, 至令忠臣更爲逆族, 良由察之不審, 防之無漸. 臣今所陳, 可謂防漸矣. 但恐陛下不明臣之忠, 不用臣之計, 事過之日, 更處焦爛之後耳. 昔王章·劉向每上封事, 未嘗不指斥王氏, 故令二子或死或刑. 谷永·張禹依違不對, 故容身苟免, 取譏於世. 臣被髮殊俗, 位爲上將, 夙夜惟憂, 罔知所報, 惟當外殄寇讐, 內盡忠規, 陳力輸誠, 以答國恩. 臣若不言, 誰當言者!
又與書曰:
君以椒房之親, 舅氏之昵, 總據樞機, 出內王命, 兼擁列將州司之位, 昆弟網羅, 顯布畿甸. 自以來, 隆赫之極, 豈有若此者乎! 以吾觀之, 若功就事擧, 必享申伯之名, 如或不立, 將不免之迹矣.
每覩史傳, 未嘗不寵恣母族, 使執權亂朝, 先有殊世之榮, 尋有負乘之累, 所謂愛之適足以爲害. 吾常忿歷代之主, 不盡防萌終寵之術, 何不業以一土之封, 令藩國相承, 如? 如此則永保南面之尊, 復何黜辱之憂乎! 竇武·何進好善虛己, 賢士歸心, 雖爲閹豎所危, 天下嗟痛, 猶有能履以不驕, 圖國亡身故也.
方今四海有倒懸之急, 中夏逋僭逆之寇, 家有漉血之怨, 人有復讎之憾, 寧得安枕逍遙, 雅談卒歲邪! 吾雖寡德, 過蒙先帝列將之授, 以數郡之人, 尙欲幷呑强虜, 是以自頃迄今, 交鋒接刃, 一時務農, 三時用武, 而猶師徒不頓, 倉有餘粟, 敵人日畏, 我境日廣, 況乃王者之威, 堂堂之勢, 豈可同年而語哉!  
見表及書甚懼, 以其絶遠, 非所能制, 遂與何充等奏聽燕王.
其年高句麗, 王乞盟而還. 明年, 遣其世子朝於.
初, 段遼之敗也, 建威奔于宇文歸, 自以威名夙振, 終不保全, 乃陽狂恣酒, 被髮歌呼. 信而不禁, 故得周遊自任, 至於山川形便, 攻戰要路, 莫不練之. 遣商人王車陰使察, 無言, 撫膺而已. 還以白, 曰:「欲來也.」 乃遣弓矢, 乃竊駿馬, 攜其二子而還.
將圖石氏, 從容謂諸將曰:「石季龍自以安樂諸城守防嚴重, 安樂通鑑九六作「樂安」, 是. 參卷一○六校記. 城之南北必不設備, 今若詭路出其不意, 之北土盡可破也.」 於是率騎二萬出蠮螉塞, 長驅至于薊城, 進渡武遂津, 入于高陽, 所過焚燒積聚, 掠徙三萬餘戶.
使陽裕·唐柱等築龍城, 構宮廟, 改柳城龍城縣. 於是成帝使兼大鴻臚郭希持節拜侍中·大都督北諸軍事·大將軍·燕王,其餘官皆如故.封諸功臣百餘人.
咸康七年(341), 遷都龍城. 率勁卒四萬, 入自南陝, 以伐宇文·高句麗, 又使及子爲前鋒, 遣長史王㝢等勒衆萬五千, 從北置而進. 高句麗王釗軍之從北路也, 乃遣其弟統精銳五萬距北置, 躬率弱卒以防南陝. 戰于木底, 大敗之, 乘勝遂入丸都, 單馬而遁. 墓, 載其尸幷其母妻珍寶, 掠男女五萬餘口, 焚其宮室, 毁丸都而歸. 明年, 遣使稱臣於, 貢其方物, 乃歸其父尸.
宇文歸遣其國相莫淺渾, 諸將請戰, 不許. 爲憚之, 荒酒縱獵, 不復設備. 曰:「奢怠已甚, 今則可一戰矣.」 遣率騎擊之, 大敗, 僅以身免, 盡俘其衆.
躬巡郡縣, 勸課農桑, 起龍城宮闕.
尋又率騎二萬親伐宇文歸, 以爲前鋒. 使其騎將涉奕于盡衆距, 馳遣謂曰:「奕于雄悍, 宜小避之, 待虜勢驕, 然後取也.」 曰:「之精銳, 盡在於此, 今若克之, 則可不勞兵而滅. 奕于徒有虛名, 其實易與耳, 不宜縱敵挫吾兵氣.」 於是前戰, 斬奕于, 盡俘其衆, 遠遁漠北. 開地千餘里, 徙其部人五萬餘落於昌黎, 改涉奕于城威德城. 行飮至之禮, 論功行賞各有差.
以牧牛給貧家, 田于苑中, 田于苑中 各本「苑」作「宛」, 本作「菀」, 卽「苑」. 下文有「省罷諸苑」·「苑囿悉可罷之」語, 各本皆同. 通典四亦作「苑中」. 今從本. 公收其八, 二分入私. 有牛而無地者, 亦田苑中, 公收其七, 三分入私. 記室參軍封裕諫曰:
臣聞聖王之宰國也, 薄賦而藏於百姓, 分之以三等之田, 十一而稅之, 寒者衣之, 飢者食之, 使家給人足. 雖水旱而不爲災者, 何也? 高選農官, 務盡勸課, 人治周田百畝, 亦不假牛力, 力田者受旌顯之賞, 惰農者有不齒之罰. 又量事置官, 量官置人, 使官必稱須, 人不虛位, 度歲入多少, 裁而祿之. 供百僚之外, 藏之太倉, 三年之耕, 餘一年之粟. 以斯而積, 公用於何不足? 水旱其如百姓何! 雖務農之令屢發, 二千石令長莫有志勤在公·銳盡地利者. 故漢祖知其如此, 以墾田不實, 徵殺二千石以十數, 是以之際, 號次升平.
永嘉喪亂, 百姓流亡, 中原蕭條, 千里無煙, 飢寒流隕, 相繼溝壑. 先王以神武聖略, 保全一方, 威以殄姦, 德以懷遠, 故九州之人, 塞表殊類, 襁負萬里, 若赤子之歸慈父, 流人之多舊土十倍有餘, 人殷地狹, 故無田者十有四焉. 殿下以英聖之資, 克廣先業, 南摧强, 東滅句麗, 開境三千, 戶增十萬, 繼武闡廣之功, 有高西伯. 宜省罷諸苑, 以業流人. 人至而無資産者, 賜之以牧牛. 人旣殿下之人, 牛豈失乎! 善藏者藏於百姓, 若斯而已矣. 邇者深副樂土之望, 中國之人皆將壺餐奉迎, 石季龍誰與居乎! 且雖道消之世, 猶削百姓不至於七八, 持官牛田者官得六分, 百姓得四分, 私牛而官田者與官中分, 百姓安之, 人皆悅樂. 臣猶曰非明王之道, 而況增乎! 且水旱之厄, 所不免, 王者宜濬治溝澮, 循鄭白·西門·史起漑灌之法, 旱則決溝爲雨, 水則入於溝瀆, 上無雲漢之憂, 下無昏墊之患.
句麗·百濟宇文·段部之人, 皆兵勢所徙, 非如中國慕義而至, 咸有思歸之心. 今戶垂十萬, 狹湊都城, 恐方將爲國家深害, 宜分其兄弟宗屬, 徙于西境諸城, 撫之以恩, 檢之以法, 使不得散在居人, 知國之虛實.
今中原未平, 資畜宜廣, 官司猥多, 游食不少, 一夫不耕, 歲受其飢. 必取於耕者而食之, 一人食一人之力, 游食數萬, 損亦如之, 安可以家給人足, 治致升平! 殿下降覽古今之事多矣, 政之巨患莫甚於斯. 其有經略出世, 才稱時求者, 自可隨須置之列位. 非此已往, 其耕而食, 蠶而衣, 亦天之道也.
殿下聖性寬明, 思言若渴, 故人盡芻蕘, 有犯無隱. 前者參軍王憲·大夫劉明並竭忠獻款, 以貢至言, 雖頗有逆鱗, 意在無責. 主者奏以妖言犯上, 致之於法, 殿下慈弘苞納, 恕其大辟, 猶削黜禁錮, 不齒於朝. 其言是也, 殿下固宜納之, 如其非也, 宜亮其狂狷. 罪諫臣而求直言, 亦猶北行詣, 豈有得邪! 右長史宋該等阿媚苟容, 輕劾諫士, 己無骨鯁, 嫉人有之, 掩蔽耳目, 不忠之甚.
四業者國之所資, 敎學者有國盛事. 習戰務農, 尤其本也. 百工商賈, 猶其末耳. 宜量軍國所須, 置其員數, 已外歸之於農, 敎之戰法, 學者三年無成, 亦宜還之於農, 不可徒充大員, 以塞聰儁之路.
臣之所言當也, 願時速施行, 非也, 登加罪戮, 使天下知朝廷從善如流, 罰惡不淹. 王憲·劉明, 忠臣也, 願宥忤鱗之愆, 收其藥石之效.
乃令曰:「覽封記室之諫, 孤實懼焉. 君以黎元爲國, 黎元以穀爲命. 然則農者, 國之本也, 而二千石令長不遵孟春之令, 惰農弗勸, 宜以尤不修闢者措之刑法, 肅厲屬城. 主者明詳推檢, 具狀以聞. 苑囿悉可罷之, 以給百姓無田業者. 貧者全無資産, 不能自存, 各賜牧牛一頭. 若私有餘力, 樂取官牛墾官田者, 其依舊法. 溝洫漑灌, 有益官私, 主者量造, 務盡水陸之勢. 中州未平, 兵難不息, 勳誠旣多, 官僚不可以減也. 待克平凶醜, 徐更議之. 百工商賈數, 四佐與列將速定大員, 餘者還農. 學生不任訓敎者, 亦除員錄. 夫人臣關言於人主, 至難也, 妖妄不經之事皆應蕩然不問, 擇其善者而從之. 王憲·劉明雖其罪應禁黜, 亦猶孤之無大量也. 可悉復本官, 仍居諫司. 封生蹇蹇, 深得王臣之體. 不云乎: 『無言不酬.』 其賜錢五萬, 明宣內外, 有欲陳孤過者, 不拘貴賤, 勿有所諱.」
時有黑龍白龍各一, 見于龍山, 親率群僚觀之, 去龍二百餘步, 祭以太牢. 二龍交首嬉翔, 解角而去. 大悅, 還宮, 赦其境內, 號新宮曰和龍, 立龍翔佛寺于山上.
賜其大臣子弟爲官學生者號高門生, 立東庠于舊宮, 以行鄕射之禮, 每月臨觀, 考試優劣. 雅好文籍, 勤於講授, 學徒甚盛, 至千餘人. 親造太上章以代急就, 又著典誡十五篇, 以敎冑子.
慕容恪高句麗南蘇, 克之, 置戍而還. 三年, 三年 校: 三年上脫年號, 按之當爲永和也. 今按: 永和元年十二月始不用年號, 自稱十二年(見通鑑九七). 御覽一二一引前燕錄咸和九年後卽用之紀年, 燕王及遷都龍城在八年(咸康七年), 龍見立寺在十二年(永和元年), 於東序考試學生在十四年(永和三年). 則此「三年」當是「十三年」, 脫「十」字. 通鑑九七在永和二年可證. 遣其世子率騎萬七千東襲夫餘, 克之, 虜其王及部衆五萬餘口以還.
親臨東庠考試學生, 其經通秀異者, 擢充近侍. 以久旱, 丐百姓田租. 罷成周·冀陽·營丘等郡. 以勃海人爲興集縣, 河間人爲寧集縣, 廣平·魏郡人爲興平縣, 東萊·北海人爲育黎縣, 人爲吳縣, 悉隸燕國.
嘗畋于西鄙, 將濟河, 見一父老, 服朱衣, 乘白馬, 擧手麾曰:「此非獵所, 王其還也.」 祕之不言, 遂濟河, 連日大獲. 後見白兎, 馳射之, 馬倒被傷, 乃說所見. 輦而還宮, 引屬以後事. 以永和四年(348)死, 在位十五年, 時年五十二. 僭號, 追諡文明皇帝.

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